この記事はnoteより、
原作者:Yutakaさんの記事の紹介しております。
昨日色んな人に投げ銭をした。ツイッターを見てくれていた人は知っていたと思うけど、そうじゃない人には驚かれたかも知れない。
実は過去にも何度かnoteでサポートをしたことはある。
「面白い!」だったり「おめでとう!」だったり「辛かっただろうな」だったりと、理由はその時の気分次第だ。
だけど、昨日は最初からサポートをする前提で読んだ。何でそんな事をしたのか。
今日はその事について書くね。
考えても分からない
とあるツイートを見かけた。
「投げ銭します!」ツイート主は投げ銭@gktpvocalsさんという方。
とんでもなく潔いアカウント名と、どストレートな発言。
noteかポルカに投げ銭をするとのことだった。
「何だこれ!?」が僕の素直な感想。
変わった人なのかもしれない。そう思っていたら今度はまた別の方を見つけた。
けんたろう(ketaro)社畜パパはランチを抜いて投げ銭中@kensaikeyさん。
この方を見たとき確信した。投げ銭さんやけんたろう(kentaro)さんが投げ銭をしているのは、その行為自体に何かがあるはずだ。
ランチを抜いてまでやるんだから、間違いない。
じゃあ一体何があるのか?しかも何故わざわざ公表する必要があるのか?
これはいくら考えても結局「これだ!」と言える答えは見つからなかった。
考えて分からないなら、やってみるしかない。きっと、自分でやって見なきゃ分からない事なんだろう。それがやってみようと思った理由。
実際にやって見て、色々と感じたことはあるけど一番強く思ったのは、「コンテンツは自分達で盛り上げなきゃいけない」だった。
熱量のあるところから循環が始まる。noteはアカウントを持ってる人達で盛り上げていきやすい環境が整っている場所だとも思った。
ずっと考えていたこと
実は投げ銭さんのツイートを見てから、「僕も投げ銭をやる」と決めるまでには、かなりのタイムラグがあった。
その間、ずっと考えていたことがある。その事をちょっとだけツイッターに流した。
実はチャリティーの文化もそこまで浸透していない日本で、noteとかのサポートってどれくらい意味があるんだろうと疑問だったんです。
でも投げ銭さんや、けんたろうさんのツイートを見て「運動は自分達で起こすもんだった」事を思い出しました! https://t.co/s97msKD50V
— Yutaka (@Yutaka48054960) 2018年10月28日
上に書いたように自分達で盛り上げて行こうという運動のこと。
もう一つは、日本には根付いているとは言い難いチャリティの問題だ。
僕は毎月寄付をしている。
寄付する団体を国境なき医師団にしたのは、彼らは危険な地域にも赴き活動をするからだ。その志を応援したいと思った。
この事は、本当に仲のいい友人にしか言っていない。
チャリティやボランティアに参加する人に対して、偽善だとか欺瞞だとか謂れのない批判の声が上がる。
ごく少数(そう信じたい)の人達の声だ。
何を以って偽善としているのかもよく分からないけど、批判的な人達とそんな話をする事自体が時間の無駄だ。
あんまり人に話したりはしないし、話す必要もないと思っていた。
それどころか、誰にも知られずにこっそりやってる方が”ちょっとかっこいい”のではないか、このまま10年20年と内緒で寄付をしていたら「足長おじさん」みたいになれるとさえ考えていた。
(こんな事を考えてるところが偽善なんだろうか?)
だけどその考え方は間違いだ。僕一人が生涯をかけて寄付し続けるより、もっと多くの人達が関心を向けることの方が、ずっとずっと大切だ。
こんな事を書いてはいるが、僕だって偉そうな事を言える人間ではない。
チャリティや支援に関心を寄せるようになったのは、自分の母親が倒れてからだ。
それまでは、分かってるつもりになっていただけで、何も分かっていなかった。
当時の僕には支援が必要な人達がいる事は、知ってはいるが遠い存在のような気がしていた。
もしかしたら多くの人にとっても遠い存在なのではないか。今はそんな風に感じている。
僕は誰もがチャリティやボランティアに参加するべきだとは思わない。
ただ、他人の善意を蔑ろにしてしまうような社会は変えたいと思う。
だとしたら、僕は自分の支援に関する考え方や、やっている事をもっと話さなきゃいけない。隠していてはダメだ。
黙っていたら誰にも届かないし、届かなければ注目されることもない。
熱量のあるところから循環が始まる。
投げ銭とは関連性が無いように感じるかも知れないけど、人の善意による支援と、そこから生まれてくる熱量が世界を変えていくんじゃないか。
投げ銭さんのツイートをみてから、ずっとそんな事を考えていた。
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読んでくれた人、ありがとう!!